鉛の風船

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異人との夏

帰省。

はち切れんばかりの笑顔で電車から降りてくる子供、それを待ち焦がれていたじいちゃん、ばあちゃん、バイバイと手を振る子供、名残惜しそうなじいちゃん、ばあちゃん、そんなシーンをニュースなどで見ていると、いまだにちょっと羨ましい。

 

私にはそういう想い出はまったくない。

 

ウチは父の実家なので、父方の祖父と祖母はいつも家にいた。
ど田舎なので、周辺はメディアなどによる “帰省” “故郷” “田舎” などのステレオタイプそのものだった。

でも今ではずいぶんと変わり、村が町に昇格し、山の一部を削ったり農地転用したりで住宅が分譲され新たな住人も増えた。
元村民も負けじと家の増改築で対抗し、農家はそこらに肥料を山積にしておけなくなり、現在、大きな湿地だった場所には集合住宅の建築が進んでいる。

それでも、依然田畑は多く、自然豊かで、山が近く、2~3キロも離れた家の家族全員の名前を知っていて、どこどこの家のせがれがどうしたとか一瞬で広まる、それを “田舎” というなら、まだまだ間違いなく田舎だ。

 

母方の実家は、ウチよりもさらに田舎だった。

子供の頃、よく遊びに連れて行ってもらったのだが、なにせ車で30分ほどの距離なので、じいちゃん、ばあちゃん家に “お泊りする” というこの上なく楽しそうな体験への夢はついぞ叶わなかった。

幼稚園の頃、どうしても泊まるとごね、絶対泣かないと胸を張って両親を押し切ったものの、案の定夜中に泣き出し、伯父が真夜中に原付バイクでウチまで送り届けるという失態を犯して以来、二度と誰一人、“泊まる?” とは聞かなくなったし、自分でも言い出さなくなった。

 

母方の実家は、それはそれは楽しかった。

なんでも言うことを聞いてくれる祖父と祖母。
祖母は絵が上手かったので、当時夢中になっていた “オバQ” の絵を何度も何度もねだった。
それこそ1千枚は軽く超えるほど書かせた気がする。

正面入り口を入った家の中の土間には牛がいて、外にはヤギと豚がいた。
広い庭にはニワトリが放し飼いになっていた。
大きなポインター(だったかな?)がいて、猟銃を携えた伯父とよく出かけて行った。

周辺は赤城山の麓に広がる大自然。
山でクワガタやカブトを獲り、川で魚を釣り、田んぼでドジョウを獲り、蛍を捕まえ、川で泳ぎ冷えた体を田んぼの水で温めておじさんに怒られ、そんな絵に描いたような “田舎” を楽しんだ。

 

・・・しっかりとアイロン掛けされたチェックの “半ズボン” と “白いワイシャツ” で。
下手するとネクタイしていたことさえあった。

 

私のウチの辺りでもそうだったが、田舎の子供なんてまだまだ本当にこ汚なかった。
鼻水垂らして袖口がカバカバになってるヤツなんてざら。
膝や肘の継ぎ当てなんて当たり前。
徹底的にレストアしてそれこそ何年着てんだ、な服ばかり。

 

そんな時代、母は、私に白いワイシャツを着せて、実家に連れて行っていた。
完全に都会かぶれの見栄。
元小学校教師で、若い頃、まだ闇市の名残が残る東京に親戚を尋ねてよく行っていたのが原因。
車でたったの30分、その距離分だけ都市部に近い家へ嫁入りしただけで、私はもう田舎者じゃないのよ、な無駄な抵抗。

時折やって来るそんな変わり者をあちこちにいた地元の子等はひたすら好奇の目で見ていた。

 

完全に “異人” である。

 

だから、地元の子等と仲良くなることはできなかった。
両親の実家に遊びに行って近所の子等と仲良くなる、そんなドラマのようなシチュエーションはほとんど巡って来なかった。

 

そう、ほとんど。

 

ある夏、母方の実家の横に広がっていた田んぼで妹とドジョウを網ですくっていると、声をかけてきた少年がいた。
私より明らかに年上でガタイがいい。
母の実家の3軒先にある本家の子だそう。
一人っ子だと言っていた。

 

こちらの都会な出で立ちを珍しがることもなく、妙に気が合い、ドジョウを一気にたくさん獲る方法、クワガタやカブトが集まる木、でかい山女が釣れる淵、メチャクチャ甘いスイカを盗みやすい畑、いつも冷たい麦茶とお菓子を出してくれる一人暮らしのばあちゃん、イモリがたくさんいる湿地、グラグラしてもう少しで崩れ落ちそうなんだけどなかなか崩れない山の斜面の巨大な岩、それこそもう、“ザ・地元” なことをたくさん教えてくれた。

 

夏休みの間中、行くたび一緒に遊びまくった。

でも、夏の終わり頃もう一度遊びに行ったときには会うことはできなかった。
秋も、冬も、春も、そして次の夏も。その次も、その次も。

“本家の子どこにいる?” とはなぜか聞けなかった。

 

そして中学になると、もう母の “田舎” には行かなくなった。
部活や友達付き合いでそれどころではなくなった。

 

高校に入るとそれこそ忙しくなり、やさしかった祖父も祖母も頭の片隅に追いやられた。
大学に入って上京した頃にはもうすっかり忘れてしまった。

 

そのまま東京で就職し、数年経ったころ、祖父が亡くなった。

 

葬儀に駆けつけると、さすが田舎、膨大な人数の参列に圧倒された。
その中で見知らぬ若い男がしきりに葬儀を手伝っていた。

伯父に “あの人誰?” と尋ねると、“本家のタケオだ” と言う。

 

そうだ!思い出した!
脳内のフィルムがどんどん逆回転していく感覚。
確かにタケなんとかと言っていた。
そう、“タケオ君” だ!
十数年ぶり!

 

あの田んぼも、あの山も、あの川も、あの畑も、あのばあちゃん家も、あの湿地も、一気によみがえった。

 

声をかけてみようと近づくと、ん?、どうも様子がおかしい。

 

私より明らかに若い。
しかも小柄。
どう見ても私が遊んでもらった “タケオ君” ではない。

 

再度伯父に確認するが、“あれがタケオだ” と言う。
お前より5つ下くらいだと。
兄弟はいないと。

 

じゃあ、十数年前に私等兄妹が遊んでもらったあの大きな “タケオ君” は誰?
妹にも確認させたが、よく覚えてないと言う。

 

祖母に聞いても “あれが本家のタケオだ” と言うばかり。

 

・・・・・。

 

じゃあ、彼こそが “異人” だったのか。

 

“帰省” という単語を見聞きすると思い出す、ある夏の楽しくも不思議な体験でした。

 

 

 

それからしばらくして聞いた話では、私が遊んでもらった “タケオ君” は翌年の春を待たずに病死してしまい、一人っ子だった彼を亡くした両親は分家から “今のタケオ” を引き取ったのだそうです。
まだ社会に出ていなかった “今のタケオ” の心情をおもんばかって、親族一同その話には触れないでいたとのこと。
なにせ、本家の跡継ぎですから。

 

ややこしいことヤメテくれーーー!

 

名前はたまたま “猛” と書いて “タケシ” だったので、そのまま “タケオ” と読ませるよう改名したのだそうです。

そんなのアリか?
ちょっと強引だぞ。
何でそこまで。

 

大きな “タケオ君” はそのガタイに似合わず、幼ない頃から病気がちで入退院を繰り返していたため、友達がほとんどいなかったそうです。
だからたまに遊びに来る見慣れないヤツ等に声をかけてきたのでしょう。

 

ちょっと昔はそんなこともあったんだという、厳然たる事実の夏のお話でした。